こんにちは、檸檬です!
昨日、韓国の映画館で「君たちはどう生きるか」を鑑賞してきました!
日本でも観たのですが、内容を全然理解できず2回目に挑戦。
映画館で同じ映画を繰り返し見たのは初めての経験でしたが、2回目のほうが理解が深まって面白かった!繰り返し見る人の気持ちがやっとわかりましたね(笑)
ここでは「君たちはどう生きるか」を観て私が感じたことだけを素直に書いていきたいと思います。解説、考察、評論や批評ではありません!
あ、この先ネタバレを含みますので見たくない方はご注意です。
まだ日本でも公開されているのかな?
そして今回のブログ、とても長文です…
それでも頑張って書いたのでお時間あるときに読んでもらえると嬉しいな。(編集後の私より)
まず、この映画を見て自分がこれから「どう生きるか」について考えた人はどのくらいいるでしょうか。タイトルにもある通り、どう生きるかを問われているのに対して自力で答えを出そうとした人はどのくらいいますか。
私は、1回目に映画を見た際に内容が全くと言っていいほど理解ができず
「ああ、なんかすごいものを見たぞ。でもストーリーも映画のメッセージも理解できなかった。解説してくれ!!!!気になる!!!!」
そう思い、YouTubeやネットで頭のいい人が考察している動画を見漁ったのち、なんとなく
「へぇ、あの場面はそういうことを言っていたんだ~。」
「この解説者はこういってるけど、こっちの解説者はこう言ってるな~。まあどっちも納得納得。」
という風に、考察や解説を見てなんとなく理解した気でいました。
このように、「君たちはどう生きるか」の問いに答える以前にそもそも映画の内容が理解できず、色々とインターネットの海で情報を収集し調べた人が多いのではないでしょうか。もちろん私もその1人です。
映画に描かれた一つ一つの出来事を切り取り考察すること。
あたかも自分の考えが正しいかのように答え合わせをする解説者。
それを見てわかった気になる大衆。
これって人間が考えることを奪う行為だよね?と気づきました。
この世には人から考える術を奪うものであふれています。インスタ、Twitter、YouTubeなどのインターネット世界。
頭を使わなくても楽して、逃避できる場所がたくさんありすぎる。
ちょっと空き時間があったらスマホ、ちょっとわからないことがあったらスマホ、いつの間にかずっとスマホを握りしめている。
それに頼りすぎると考える時間がどんどん奪われていき、いつか考えることをしない脳みそになっちゃう。
自我を形成するのは自分の思考が基盤にあるはずなのに。
だから、私はこの映画をソウルのカンナムという大都市で観た後、混沌とした地下鉄の中でぐるぐると考えてみました。
ここから先は私なりの気づきを書いていきます!
① 人にとっての価値あるものは自分にとっては石ころかもしれないし、またその逆もある。
これは、映画の終盤に大叔父が眞人を自分の後継者にしたいと、自分の仕事を継いでくれないかと頼むシーンです。大叔父の仕事は積み木を塔のように積み、この地下世界の秩序を守ることでした。
しかし、眞人はその仕事を断ります。「それは木ではなく石です。悪意があります。」
大叔父にとっては悪意に染まった石ではありますが、それを積むことでこの世界は均衡を保つことができると考えたのではないでしょうか。
ただ、眞人にとってはそれはただの石であり自分のやるべき仕事ではないと考えます。
そして二度目の勧誘。今度は悪意のない13個の石を眞人に渡し、平和な自分の世界を新たにつくるように言います。
眞人に託すとは言ったものの結局は大叔父の望む争いと憎しみのない善意だけの清らかな世界をつくることを眞人に望んでいるように思えます。
しかしここでも拒否する眞人。大叔父の嫌いとする争いの絶えない悪意だらけの世界で自分自身の悪意を背負って生きていくと主張します。
この一連の流れで私は思いました。
積み木を積む重ねる=世界の均衡が保たれる
積み木が崩れる=世界の均衡が崩れる
ここに因果関係なんて本当はないのでは?と。
(何度も言いますが、これは私の単なる思い付きであり、考察に及ぶものでもありません!)
血縁関係を持つ者しか大叔父の仕事を継げないことから眞人が後継者として選ばれますが、これは眞人によって積み木を積んで世界を維持することが可能なことを意味しますが、同時に眞人によって世界を崩すことも可能なことを意味します。
ところが結局はインコ大王によって積み木が積まれ、グラグラと傾いた際に逆上したインコ大王は刀を抜き積み木を破壊します。そして積み木が崩れたと同時に地下世界も同時に崩壊しました。
一見、積み木が崩れたから世界も崩壊したかのように思われますが、血筋の通ってないインコ大王によって世界は簡単に崩せてしまったのです。
これは積み木と世界の間に因果関係があるのではなく、積み木を積むことで世界の均衡が保立てることを信じている大叔父にとっては「積み木を積む作業」を大切にしていますが、眞人にとって積み木は悪意のある石であり、インコ大王にとっては刃物ひとつで崩れるただの石でした。それを積むことの大切さなど理解しがたいことです。
相手にとって価値のあると信じていることは、自分にとっては価値のわからないものであり、その逆もあります。
自分視点と相手視点で物事の見方が変わると思いました。
私はここでセカオワの「Dragon Night」という曲の歌詞を思い出しました。
この曲は戦争状態の両国がクリスマスの日ぐらいは争いをやめて一晩だけ共にお祝いをしようというクリスマス休戦がもとになっているといわれています。
人はそれぞれ「正義」があって争い合うのは仕方ないのかも知れ ないだけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ
人はそれぞれ「正義」があって争い合うのは仕方ないのかも知れないだけど僕の「正義」がきっと彼を傷付けていたんだね
自分にとっての正しさは相手にとってはそうではなかったり、自分を嫌いとする相手にもまた理由があって、それは自分の立場からは決めつけられないということだと感じます。
メンバーの深瀬が描いた「ブルーノ」という絵本もこのDragon Nightの歌詞とリンクしています。これもまた二つの立場から「自分にとっての正しさと相手の気持ち」を教えてくれる作品です。
②自分が犯した悪意と罪悪感
ストーリーが前後しますが、夏子のいる産屋へ行き「もう帰ろう!」という眞人に対して「あなたなんで大嫌い!」といい放つ夏子ですが、それに対して眞人は「お母さん!」と叫びます。ここでやっと夏子を母親だと認めることになりますが、ここでの眞人の心情を考えてみました。
これまで眞人は夏子のことを母親だと認めることができずにわざと冷たい態度をとっていました。これは夏子に対する眞人の悪意です。
しかし、思いもよらず夏子から「大嫌い!」と言われたことで、自分の犯した罪をさらに実感し、罪悪感を抱きます。相手から嫌われたと気づき、とっさに「お母さん!」と叫ぶことで自分の罪を消化し相手に寄り添おうとする卑怯な眞人だと私は受け取りました。
相手が気分を害することをしていしまい、後になってそれが自分に返ってきたり、実は相手も自分のことを嫌いとするまなざしを向けてきたときがあるとしましょう。
すると、自分の悪意に気づき罪悪感を抱きそれを消化するかのように、相手に依存するようになります。自分のことを嫌わないで!と必死にしがみつきます。
一度悪意をもって行動してしまったことは変えることはできません。
その先の人生で自分の犯した悪意とその時に感じた罪悪感を胸に刻んだまま生きていくことになるでしょう。
ただ、それで終わりにせずに、そこから自分はどう生きていくかが重要になっていくのだと思います。
沢山争い、傷をつけあった先には、自分自身の手でも自分に傷をつけることにもなりました。ただ、その傷と共にこの先自分がどう生きていくかを考え続けなくてはなりません。
どう考え、どう行動していくか。どう生きるか。
私も結局はだらだらと毎日を過ごしてスマホをぼーっと見ている時間が多いのは確かです。映画に感銘を受けたからといってすぐに改心することもできないと思います。
それでも自分の頭で考えて書いたこのブログを通して、少しは成長できたかなと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
では、また!