こんにちは。檸檬です。
前回に続き、今回も「孤独ということ」についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。
前回は、私が日常生活で孤独を感じることについて書いてみました。
主に、韓国での研究生活(そんなに立派なものではありませんが)のなかで、自分の夢と現在の自分の行動が一致しないという矛盾の中、勉強に向き合うことの孤独さについて書きました。
ここで、いまいちど「孤独」とは何か考えてみることにします。
広辞苑によると「孤独」とは、以下のように記されています。
「仲間のないこと。ひとりぼっち。」
そして、似ている言葉の「孤立」を調べてみると次の通りです。
「他とかけはなれてそれだけであること。ただひとりで助けのないこと。」
あれ?
ん?
この概念のような定義があまりしっくりこないのです。
私にはありがたいことに家族もいるし、友人もいるし、パートナーもいることから「仲間のいないこと」には該当しない。
そんな仲間に助けを求めることもできるので「助けのないこと」にも当てはまらない。
じゃあ、この孤独感の正体は何なのか?
「実態としての孤独」ではなく、「精神的な孤独」というべきでしょうか。
文を書きながらふと思い出したのは、大学生の時に学んだ貧困の話です。
「絶対的貧困」は、いわゆる発展途上国において子供たちが学校に行くお金がなく児童労働をするような、明日の生活を送ることが脅かされるような生きる上での最低限の生活水準が満たされていないことを指します。
対して「相対的貧困」は、家庭の経済状況が厳しく、クラスの友達がもっているゲームを買ってもらえなかったり、バイトをし奨学金を借りながら大学の授業料を払うような、ほかの人の生活水準と比較して貧しいことを指します。
これをこのまま孤独に置き換えてみたらどうでしょう。
「絶対的孤独」
「相対的孤独」
「絶対的孤独」は、辞書の定義通りの「仲間のいないこと、ひとりぼっち」であり、身の拠り所のない状態を指すと考えます。
「相対的孤独」は、仲間はいるけれども日々の生活のなかで一人で過ごす時間が多すぎるあまり、忙しく動いている社会とのつながりがしっかりある人達と比べて自分は孤独だと思ってしまうことだと考えます。
「孤独ということ①」でも書いた通り、将来の夢のために今やらなけばいけないことがあるにもかかわらず、自分の方向性がわからずもがいている過程で孤独を感じているのだと思います。
日中、世間の働く皆様、学生さんは日々自分の役目が与えられ、それを全うするかのように外で出て、いろいろな人と関わりながらあっという間に一日が過ぎている。
このような生活と自分の生活を比べて、孤独を感じるのだと思います。
朝起きて、だらだらYouTubeを見ながら化粧、ご飯、そして図書館でなんとなく勉強、家に帰ってまただらだらYouTubeをみながらご飯を作る、寝る前までゴロゴロYouTube。
自分の生活にうんざりです。
大学院生とはもともと孤独と闘い、自分自身と闘い成果を出すものだと思うのですが、私はまだまだその領域まで達していないようです。
研究をするモチベーションが下がる中、再び勉強中枢への刺激を与えることで、自分が今やるべき勉強が明確化し、勉強をすることに孤独を感じなくなるのかもしれません。
私にはまだ、この孤独に打ち勝つ方法、あるいは向き合う方法を見つけることができませんでした。
ここで、強いて結論を出すことはやめにして、私の感じる孤独の正体は「相対性」にあったのだということだけ発表することにします。(笑)
これからは、少し外に出て自分の行動範囲を広げ、いろんな刺激を得られるよう努力をしていくことに移行していきたいと思います。
最後に。
こうやって書くことが自分への慰めになっているような気がします。
なかなか文章にすることは難しいですが、書いている中で心情的に安定する気もします。
檸檬ちゃん、初期の目標を忘れずに焦らずにできることをしようね。
ちゃんと前に進んでいるから。